美術館「えき」KYOTOに田中一村展を観に行きました。https://kyoto.wjr-isetan.co.jp/museum/exhibition_2105.html
明治41(1908)年7月22日栃木県に生まれ、幼い頃から画才を発揮、7歳の時に、木彫家の父から「米邨」の号を与えられた「田中孝」。大正15(1926)年に東京美術学校に入学します。東山魁夷と同級でした。しかしわずか二ヶ月で退学します。その後、南画家として活動しますが、南画と決別し30歳で千葉に移住、動植物の写生にいそしみます。39歳で念願の画壇デビューを果たしますが、日展や院展にはことごとく落選します。50歳で奄美大島に移住した一村は、その風景を独自の画風で描き続け、昭和52(1977)年69歳でなくなりました。
昭和55(1980)年N H Kの松元ディレクターの目が、奄美大島名瀬市のダイバーの家で一枚の魚のデッサンに釘付けとなりました。松元さんは、大島紬の染色工をしながら日本画を描き続け、十数点の奄美の絵を遺したという田中一村を追いかけて取材し、「日曜美術館」の「美と風土」シリーズで「黒潮の系譜〜田中一村」として放送され、大きな反響を呼びました。問い合わせが係に殺到、昭和60(1985)年日本放送出版協会が独自に作品集を出版する運びとなりました。
私はこの番組を観、感動し、作品集を購入した一人です。
あれから36年、引越しも何回かしましたがこの画集はずっとそばにあります。
今回の展覧会は緊急事態宣言下、観ることは叶わないかなあと思っていたのですが、開催されるとの通知に喜んで早速行ってきました。幸い伊勢丹も美術館も空いていて、気持ちよく鑑賞することができました。
これまで観たことがない作品を見ることもできました。下の写真は会場外に掛けてあった布や複製画です。
お馴染みの作品も掛けられていました。
「自分の良心の納得いくまで描いております。一枚に二ヶ月位かかり、三ヶ年で二十枚はとても出来ません。私の繪の最終決定版の繪がヒューマニティーであろうが、悪魔的であろうが、畫の正道であるとも邪道であるとも何とも批評されても私は満足です。それは見せるために描いたのではなく私の良心を納得させる為にやったのですから・・・千葉時代を思い出します。常に飢に駆り立てられて心にもない繪をパンの為に描き稀に良心的に描いたものは却って批難された。」
スケッチブックに遺された、知人への手紙の下書きです。自身の思うところを貫いて絵を書き続けた彼の最期を「孤老のさびしい死の姿」と松元ディレクターは表現しておられますが、36年経ち時代は変わりました。上野千鶴子さんの「在宅ひとり死のすすめ」という本がベストセラーになる今では、相当数の人にとって、一村の老後の暮らしぶりはむしろ理想ということもできるでしょう。
一村が残した俳句。
恋文の 代筆果たす 吾五十二
銀河見ゆ フクロー聞ゆ ねむの花
熱砂の濱 あだんの写生 吾一人
画集に載っている、名瀬市で陶器店を経営、昭和54年秋に田中一村遺作展を実現した、宮崎鑯太郎さんの文章の最後「しかし、絵の方もさることながら、すべての虚飾をかなぐり棄てて人間の生のギリ入りの原点を踏みしめて歩かれた田中さんの生き方そのものから、私は汲めども尽きせぬ泉のように人生の指針と励ましを受けつづけております。私にとりましては生涯最大の出会いでした。」にあるように、一村は奄美で出会った人々に強烈な印象を与え、人々から愛されました。「孤老」ではありませんでした。
これはイソヒヨドリです。
2021年、梅雨の晴れ間、朝、イソヒヨドリの声を聴き、田中一村展を観に行き、久々に手元の画集を開き、色々な人の文章を読み、しみじみ佳い日を過ごすことができました。感謝。いつか奄美大島に行きたいです!http://amamipark.com/isson/
2021・皐24日(月) 今日からまた梅雨の空模様です。